■地名の由来 資料は「公団住宅鶴川団地自治会会報・むれづる」に基づいてます。

■小野路

奈良時代に「小野牧」があったところで、「小野郷」と称されました。小野氏 の支配地だった処から「小野地」と記されたこともあり、文明年間には「小野路宿」といわれ、寛文六年(一六六六年)から「小野路」といわれるようになりました。

■真光寺

村の中央にあった池が、夜になると光を発したとこるから、「真光池」と言われたのに由来すると伝えられ、古記録には「住古、ココニ真光寺トイフ寺アリシヨリ、村名トナリ」と記されています。その後寺は焼失して再建されないまま地名のみ残っています。

■広袴

小山田氏の家臣で、前島半弥という人が巡視した時、「此地ノ形状ハ袷モ袴ヲ広ゲタ如シ」と語ったことに由来すると伝えられています。

■三輪

元応年間(一三一九年~二〇年)に、大和国城上郡三輪の里より、斉藤・矢部・荻野より三氏により開拓され、天正年間(一五七三年~九一年)から、開拓者の出身に因み「三輪」と呼ばれるようになりました。

■野津田

蔦が多く生育していたことから、「野蔦」の地名になったと伝えられています。寛文八年から、現在の文字「野津田」で記されています。

■金井

金井は古記録によると、南北朝鮮時代の著名な古戦場「金井ヶ原の合戦」とあるようにすでにこの頃には地名があったと思われます。この金井ヶ原が歴史では小金井市とされていますが、鶴川が新田義貞の鎌倉攻めの進路であったこと本町田の「井手の沢」で合戦があったことなどから、当然鶴川周辺でも盛んに戦があったと思われます。金井にも言伝えはありますが、裏付けとなる事実がないので、小金井市に取られた形になっています。

■鶴川

昭和四十二年鶴川団地が出来た時、作られた町です。百年前、八ヶ村(大蔵村、広袴村、真光寺村、能ヶ谷村、三輪村、金井村、野津田村、小野路村)が一緒になって旧鶴川村が出来た時、鶴川の地名の所はありませんでした。古い地図と現在の地図と見比べてみると、道路や村の境界線がはっきりしないので間違っているかも知れませんが、大体鶴川一丁目は能ヶ谷で、鶴川二丁目・三丁目と四丁目の一部は大蔵であり、鶴川五丁目・六丁目と四丁目の一部は広袴で、四丁目の一部が真光寺であったと思われます(間違っていたらご免なさい)。

■能ヶ谷

鎌倉時代、紀州尚ヶ谷から来住した神蔵氏、鈴木氏、夏目氏、森氏の四氏が開拓して、「直ヶ谷」といいましたが、天正年間から「能ヶ谷」と記されています。

■大蔵

鎌倉時代、大蔵三郎竹高という人が居住して、地名になったと伝えられ、その後子孫が世田谷領大蔵村と鶴川の大蔵村に分流したとのことです。

■鶴川の風習について

年の人が亡くなると、せんべいを買ってきて、目・口・耳をせんべいで塞ぎ、これを半紙で包んで辻に捨てます。同年の人の死はショックなので、何も知らなかったことにしたのです。

天井から降りてきた蜘蛛は、宝蜘蛛といって枡に入れて大黒柱に上げ、夜、天井から降りてきた蜘蛛は泥棒蜘蛛といって火にくべます。

月五日は男の節句です。軒端の屋根に、蓬(よもぎ)二本と菖蒲三本とを結び、三ヶ所にさげます。菖蒲は勝負に通じ、蓬は薬草でこれから夏にかけ、暑さに負けず健康でありますよう願うものです。夜は菖蒲と蓬を束ねて、湯に入れて菖蒲湯(勝負湯)として入れるのです。

代に種籾を蒔き、その日から数えて四十九日目は、田植えをしません。縁起を担ぐようですが、実はこの日以降が、田植えに適しているのです。

月十三日は、お盆のお迎えの日です。夕方、胡瓜やなすの馬や牛を作って迎えに行きます。鐘をたたいて火を三ヶ所燃やして、お線香をあげます。この火はお明かりの意味で、馬や牛に乗って仏様は来られると言われています。朝、かやを切って敷物を編み、竹を切ってきて盆棚の四隅に立てます。網を巻き、家でとれた柿・小豆・薩摩芋などをお供えします。又、総出で豊年踊りに興ずる盆踊りも、実施されています。

月九日をいの子といって、ぼた餅を作ります。この日蛙が、ぼた餅を背負って大根畑を通ると、大根が思わず首を長く出すといいます。大根の育ちを促す縁起です。

二月八日は「めかりばばあ」といって、子供たちは怖がっています。一つ目のお婆さんがきて、悪い病気などを起こすと言います。ぐみの木をいぶらせたり、目かいを屋根に上げたりします。悪い日なので小豆飯を作ります。悪いことのおこらないよう、お祝いをするのです。

二月冬至の日に、柚子を食べ、湯に入れて柚子湯に入ります。又、柚子を糠味噌に漬けて、お正月に食べられるよう準備します。子孫に代々ゆずるという縁起。

■切支丹禁制とお寺

幕府の切支丹禁制は、踏絵や島原の乱で知られています。更に幕府は宗門改帳を作り、寺請証文をお寺から出させるようにしました。この証文は、自分の寺の信者であることを寺が証明する書付で、旅行・結婚・奉公などの時に必要でした。庶民の戸毎に所属の寺院を定めさせ、宗門改帳を作って族籍、年齢、増減、下男下女の区別などを記入し一人一家毎に捺印させ、坊さんがこれを証明するのでした。当時のお寺は、民間委託の戸籍係で、身分証明書やパスポートを発行する所でもあったのです。従って日本人は、生まれた時から仏教信者でした。小島資料館には、切支丹禁制の踏絵や宗門改帳が残されています。

■庚申塔

六本の手を持つ青面金剛と、上に日月を下に三猿を刻んだ庚申塔は、六十年毎にたてられていました。庚申の日は夜眠らず過ごさないと、その人の腹の虫が天に昇って、神にその人の罪を告げて命を失うから、人々は善行を行なわなければいけないと謂う道教の教えからきたものです。

■道祖神

道祖神は、外から入ってくる疫神や悪霊などを、村境や峠、橋のともとなどで防ぐために建てられました。また旅の神様でした。

■馬頭観音

馬を祀った馬頭観音は、農耕・運送について人と馬との関わりあいを感じます。

■地神塔

地神(じじん)は農業神とされ、春・秋分に最も近い戌の日に講中(同一信仰をもつ集団)を単位として祀られます。町田市域から神奈川県全域及び静岡県東部にかけてみられる宗教民俗です。地神塔は文字塔が大半を占めますが、女性像地神、武神像地神もあります。農業がこの地域の主生業でなくなった現在、地神の信仰はおとろえつつあります。

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